1.茶のもとは中国

  お茶を飲む風習(ふうしゅう)がはじめてわが国に伝えられたのは奈良(なら)時代[710〜784]と言われています。
  遣唐使(けんとうし)や中国から日本へやってきた僧侶(そうりょ)たちによってもたらされたことが考えられます。
  当時、唐(とう)[618〜907]と呼ばれていた中国には、すでにお茶を飲む習慣(しゅうかん)がありました。それは陸羽(りくう)[?〜804]という人が書いた『茶経(ちゃきょう)』という本を見てもわかります。
  そのころのお茶は、団(だん)茶という、お茶の葉をつき固めただんごのようなものでした。
  お茶の木がはじめてわが国に植えられたのは平安(ヘいあん)時代[794〜1185]です。

  唐(とう)に渡り、仏教(ぶっきょう)を学んだ最澄(さいちょう)[伝教大師(でんきょうだいし)・767〜822]が、お茶の種(たね)を持ち帰り比叡山(ひえいざん)のふもと[現在の滋賀県坂本(しがけんさかもと)]に植えたのが始まりです。
  平安(へいあん)時代の末、中国は宋(そう)[960〜1279]の時代になりますが、この宋(そう)に渡った栄西(えいさい)[1141〜1215]という僧侶(そうりょ)が質のよいお茶を持ち帰り、京都・栂尾(とがのお)の地に茶の実を植えました。ここの地質はお茶の木の成長に適(てき)していたため、たいへんに良質(りょうしつ)のお茶がとれるようになりました。以後、お茶は宇治(うじ)や静岡(しずおか)など日本全国へと広がってゆきました。

  栄西(えいさい)は、お茶は飲んで楽しむだけのものではなく、病気にもきく薬(くすり)であると『喫茶養生記(きっさようじょうき)』に書いて、時の将軍(しょうぐん)、源実朝(みなもとのさねとも)[1192〜1219]に献上(けんじょう)しましたことから、健康回復(けんこうかいふく)のための薬(くすり)として飲むようになり、しだいに武家(ぶけ)の間にひろまり始めました。こうしてお茶が盛(さか)んになってくるにつれ、宋(そう)の国からお茶の用具も多く輸入(ゆにゅう)されるようになってきたのです。
  室町(むろまち)時代[1336〜1573]のはじめになると、武家(ぶけ)や商人(しょうにん)の間にもお茶を飲む風習(ふうしゅう)がひろがってゆきました。
  しかし、このころのお茶はぜいたくで、遊(あそ)びのひとつとして考えられていたようです。たとえば、産地の異(こと)なるいくつかのお茶を飲んで、どこのものかを言いあてることに賞品(しょうひん)をかけたりする闘茶(とうちゃ)とか、茶寄(ちゃよ)り合(あ)いなどが流行(りゅうこう)していました。


2.珠光(じゅこう)の草庵茶(そうあんちゃ)と
    紹鴎(じょうおう)のわび茶


  室町(むろまち)時代にも中ごろになると、ぜいたくではなやかな茶会はしだいに影(かげ)をひそめるようになり、珠光(しゅこう)[村田珠光(むらたじゅこう) 1423〜1502]が始めた簡素(かんそ)で落ち着いた草庵(そうあん)の茶法(ちゃほう)を楽しむようになりました。
  それはこれまで行われていた広い部屋ではなく、四畳半(よじょうはん)のような狭い部屋での茶会となったのです。
  そのころから一般にもひろまり、町角などで売られた一服一銭(いっぷくいっせん)の茶という簡単(かんたん)なお茶の飲み方もでてきました。
  武野紹鴎(たけのじょうおう)[1502〜1555]は、珠光(じゅこう)が理想とした草庵(そうあん)の茶を学び、それをさらに簡素(かんそ)にした「わび茶」をはじめました。
  それは質素な中に、心から誠意(せいい)をもってお客さまをもてなすという精神的な面が生かされたもので、いろりを切った農家風(のうかふう)の建物(たてもの)が使われるようになりました。
  紹鴎(じょうおう)のわび茶の精神を表現したものに


見渡せば   花も紅葉(もみじ)もなかりけり
浦(うら)のとまやの秋の夕暮れ

藤原  定家(ふじわら  ていか)


の和歌があります。
  はなやかに咲(さ)いていた花や紅葉(もみじ)も散(ち)ってしまって、これからさびしい枯(か)れ木の季節(きせつ)を迎(むか)えようとする澄(す)みきったかれた世界を茶の湯の精神と考えたのです。


3.利休(りきゅう)とわび茶の完成(かんせい)

  この紹鴎(じょうおう)のわび茶の精神を受けついだのが千利休(せんのりきゅう)[1522〜1591]です。
  利休(りきゅう)は姓(せい)を田中、名を与四郎といい堺に生まれました。幼いころから茶を学び、やがて紹鴎(じょうおう)の弟子(でし)になりました。
  のちに、祖父の千阿弥(せんあみ)の一字をとって、千の姓(せい)を名のるようになりました。その後、織田信長(おだのぶなが)[1534〜1582]に召されて茶頭役として仕え、信長が本能寺(ほんのうじ)の変で、明智光秀(あけちみつひで)[1526〜1582]によって倒されたあとは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)[1536〜1598]に仕え三千石(さんぜんごく)を与えられました。
  このころから利休(りきゅう)や堺の商人(しょうにん)たちによって茶の湯が盛(さか)んに行われるようになり、利休(りきゅう)も秀吉(ひでよし)に重く用(もち)いられていきます。
  しかし、大徳寺(だいとくじ)の山門(さんもん)[金毛閣(きんもうかく)]に利休(りきゅう)の木像が安置(あんち)されたことがのちに問題となり、秀吉(ひでよし)から切腹(せっぷく)を命ぜられてしまいます。
  さて、利休(りきゅう)の茶の精神を表わすものとして次の和歌が知られています。



花をのみ待つらん人に山里の
雪間(ゆきま)の草の春を見せばや

藤原  家隆(ふじわら  いえたか)



  長くきびしい寒さを乗りこえて、雪の間(あいだ)のところどころに、いかにも青々とした草が顔をのぞかせている。
  静けさの中にも新しい活動力をひめた自然の力強さが表わされており、利休(りきゅう)の芸術上(げいじゅつじょう)の創造力(そうぞうりょく)を感じとることができます。


4.利休七哲(りきゅうしちてつ)と大名茶(だいみょうちゃ)

  利休(りきゅう)の死後、あとを継(つ)いだのは弟子の古田織部(ふるたおりべ)[1544〜1615]をはじめ細川三斎(ほそかわさんさい)[1563〜1645]、高山右近(たかやまうこん)[1553〜1615]、蒲生氏郷(がもううじさと)[1556〜1595]、牧村兵部(まきむらひょうぶ)[1545〜1593]、芝山監物(しばやまけんもつ)[?]、瀬田掃部(せたかもん)[1547〜1595]、などの利休七哲(りきゅうしちてつ)と称された武将(ぶしょう)たちでした。
  江戸(えど)時代[1615〜1868]に入ると、小堀遠州(こぼりえんしゅう)[1579〜1647]、金森宗和(かなもりそうわ)[1584〜1656]、片桐石州(かたぎりせきしゅう)[1605〜1673]などの大名(だいみょう)たちによって盛(さか)んに茶の湯が行われるようになりました。これを大名茶(だいみょうちゃ)と呼んでいます。一方、利休(りきゅう)の茶はその子孫によって広く一般の庶民(しょみん)へと伝えられてゆきました。


5.千家(せんけ)の成立(せいりつ)とその後

  利休(りきゅう)には二人の男の子がありましたが、長男の道安(どうあん)[1546〜1607]は飛騨(ひだ)に隠(かく)れ、次男の少庵(しょうあん)[1546〜1614]は会津若松(あいづわかまつ)の蒲生氏郷(がもううじさと)にあずけられました。その後、蒲生氏郷(がもううじさと)や徳川家康(とくがわいえやす)[1542〜1616]の取りなしによって秀吉の怒(いか)りがとけ、少庵(しょうあん)が千家をつぐことになりました。
  現在まで続いている千家茶道の基(もと)を築(きず)いたのは、少庵(しょうあん)の子で利休(りきゅう)の孫(まご)にあたる千宗旦(せんのそうたん)[1578〜1658]です。

  宗旦(そうたん)には男の子が4人ありましたが、長男の宗拙(そうせつ)[15??〜1652]、次男の宗守(そうしゅ)[1593〜1675]は早くから家を出ていましたので、宗旦(そうたん)は三男の宗左(そうさ)[1613〜1672]に不審菴(ふしんあん)をゆずり、その北側に今日庵(こんにちあん)を建てて四男の宗室(そうしつ)[1622〜1697]とともに移り住みました。のちに次男宗守(そうしゅ)が京都に帰って建てた官休庵(かんきゅうあん)の成立によって、表千家(おもてせんけ)・裏千家(うらせんけ)・武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)の三千家(さんせんけ)が生まれ、以後今日まで多くの茶人を世に送り出しています。

  こうした400年の長い歴史と伝統のもとに、裏千家では“和敬清寂(わけいせいじゃく)”のこころを少しでも多くの人々に伝えることを願い、一歩一歩前進しているのです。