裏千家トップページへ
真味の棗

千 宗室

  これはまだ学生の頃、自分の稽古の支度をしていた時の話である。薄茶器用の引き出しには利休形の物や吹雪などが一種類ずつ収まっている。私は黒の平棗を取り出すことが多かった。棗の甲には朱漆で文字が書かれた跡がある。殆ど落剝しているのだが、角度を変えたりするとどうやら「真味しんみ」との字なのが判る。
  私の稽古は主として長老の業躰が見てくれていた。かなり厳しい人だった。点前作法はもちろんとして使う道具の取り合わせなど、指導はこと細かかった。中でも点前に臨む心構えについては殊更厳しい。常在戦場という言葉がある。要は茶の湯者はを心得なくてはならぬと叩き込まれた。
  棗の甲の真味の字は十三代圓能斎の筆である。即ち私の曽祖父である。この棗は十職の作ではない。出入り方の手の物でもない。いわゆる町棗だ。だから作者は不明だ。しかし真味の字が書かれている。歴代家元が漆書きをした茶器である。それは大切に扱わなければならない。その想いが機械的に申し送られるであろう安易さに対し、曽祖父は警鐘を鳴らした。真味の字がなければ稽古用の棗だ。つい扱いに気が抜けるかもしれない。それは茶の本質に反する。稽古棗と軽く思われがちな物に字を書き、それを扱う稽古人に「さあ、どうだ」と突きつけた。私はそう考える。多くの稽古人の畏れや戸惑いの帛紗が触れているうち、文字は落剝していった。その落剝した微かな漆の欠片と共に、大切な教えが一人一人の中に染み込んでいったのなら何よりだ。
  私が家庭を持った頃には筆の痕跡さえ消えてしまった。そうなるとどこから見てもただの平棗だ。しかしそれを使って稽古を重ねてきた私を含む社中の中に圓能斎の教えは根づいていてほしい。茶の湯の稽古は本番と同様に軸を掛け、花を入れて湯相を整え点茶する。確かに常在茶道なのである。その心構えを私はどれほどの人に伝えられたのだろう。
  茶会などで平棗を拝見する際、甲に真味の字が見えることがある。あり得ない。あり得ないのに見える。私にはまだまだ真味が足りていないからなのだろう。曽祖父と私は同じ申の干支なのだが、こちらは未だに小猿から育っていない。実に恥ずかしい。

淡交タイムス 6月号 巻頭言より